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No.128 Summer.2017

レッテルはいらない新しい自分を探し続けたい

俳優

草刈 正雄さん

すらりとした長身に、甘いルックス。歳を重ねても、若々しい魅力が色褪せない俳優の草刈正雄さん。
誰もが羨む容姿ながら、本人は二枚目のレッテルを貼られることに閉口し、必死に抵抗した時期もあったのだとか。
「苦しみながらも、変化を求めて挑み続けてきたから今がある」と語る草刈さんの俳優人生について伺いました。

取材・文/宇治有美子 撮影/尾嶝太
スタイリング/池谷隆央(Calledge) ヘアメイク/北村典雄


稀代の二枚目俳優として、22歳で華々しくスクリーンデビュー。その恵まれた容姿で話題を呼び、瞬く間に人気俳優の地位を築いた。野球が大好きで、毎日ボールを追いかけるスポーツ少年。俳優を志したことは一度もなかった。だが、その片鱗は幼少の頃からすでに顔を覗かせていたようだ。

子供の頃は、映画好きの母と映画館に行くのを楽しみにしていました。1950年代は映画の全盛期で、映画館も活況だった。特に時代劇には個性的な俳優が多く、大川橋蔵さんや中村錦之助さんのお芝居が好きで夢中になって観ていました。小学校時代、休み時間になると誰よりも率先してフランケンシュタインごっこを始めるのも僕だった。フランケンシュタインに扮して、友人らを襲う真似をすると、みんなが喜んでくれるのがうれしかったんです。初めて人前でお芝居をしたのも小学生の時ですね。学芸会で主役の敵役を演じたのですが、それだけでは飽き足らず「こうした方がもっと面白くなる」などと主役の友人に演技指導のようなことをしていました。人前で何かを表現するのはこの頃から好きだったのでしょうね。

二枚目のレッテルにもがき苦しんだ20代

中学、高校は軟式野球に打ち込み、高校3年生の夏に全国大会に出場するため、初めて上京した。その翌年、モデル活動を理由に、故郷の福岡から再び上京することになる。上京から数年、資生堂のCMの専属モデルに起用されたことで、俳優の仕事のオファーが舞い込むように。だが、20代の頃は、ほとんどが二枚目の役どころ。演じることが面白くなるに連れて、二枚目のレッテルを貼られるのは物足りない、という思いを募らせていった。

資生堂のCMで、コメディタッチな演技の面白さに目覚めてしまったこともあり、二枚目路線を崩したくて仕方がなかった。おまけに生意気盛りでしたから、周りに反抗もしました。テレビドラマ『華麗なる刑事』で田中邦衛さんとコンビの刑事を演じた時もそうだった。邦衛さんは鹿児島から出てきた泥臭い刑事で、僕はロサンゼルス市警から異動になったかっこいい刑事という役どころ。タイプの違う凸凹コンビが活躍するはずでした。ところが二枚目のレッテルを崩したいともがいていた僕は、もともと邦衛さんのファンだったこともあってどんどん邦衛さん寄りの三枚目のとぼけた雰囲気を出すようになっていった。2人が三枚目を演じたら成り立たないのに(笑)。若気の至りとはいえ、当時は本当に迷惑をかけましたね。

30代半ばで氷河期に 舞台への挑戦で活路を開く

その後も本人の意志とは裏腹に、二枚目スターとして映画にドラマにと次々役を射止めていった。しかし30代半ば、映画業界の低迷とともに仕事が激減。次第に焦りも感じ始めるように。そんな時、ある先輩の女優さんの言葉が草刈さんのその後を変えた。

映画そのものの人気がなくなってきたこともあり、30代半ば頃から40歳になる頃までは、まさに氷河期でした。もともと芝居をしっかりと勉強してきたわけでもないから俳優を続けるのは難しいのではないかと思い悩んだこともありましたね。そんな時、先輩の女優さんが僕の状況を見て、「舞台に出なさい」と背中を押してくれたんです。僕は俳優として新たな自分を見せたいという気持ちが強い半面、物事をネガティブにとらえてしまう性分。正直に言うと最初は「舞台なんて怖くてできない」という気持ちが強かったんです。先輩の女優さんはそんな僕に、一歩を踏み出す大事さを気づかせようとしてくださったのでしょう。恐怖心はあったものの、仕事を選ぶ余裕もなく勧められるままに挑戦したのが、初舞台「ドラキュラ」です。「ドラキュラ」の舞台は、宙吊りになるような派手な演出で、演じていて意外なほどに楽しかったですね。舞台ってつくづく不思議です。約3時間を通して人前にさらされ続け、膨大なせりふを披露しなくてはいけない。役者にとっては多大な緊張を強いられる苦行のようなものです。実際、何度経験しても苦しさは消えません。それなのに、観客との一体感や達成感に魅せられて、また次に挑みたくなる。舞台の出演作が続き、その魅力にはまるにつれ、役者として自信を持てるようになりました。

直感を大切にして 役と向き合ってきた

2014年には3本の舞台に立て続けに出演。なかでも三谷幸喜さん演出の舞台への出演は、その後の飛躍にもつながった。演じたのは、意外にも〝下町のおやじ〟。少々情けないおやじを草刈さんはチャーミングに演じ切った。

三谷さんの脚本は笑わせようと構えずに淡々と取り組むだけで面白くなる。脚本自体に力があるのでしょうね。この年、1本目の舞台は山田太一さん脚本の『日本の面影』というかなり重い内容の作品。その直後に三谷さんの『君となら』の稽古が控えていました。すぐにコメディに頭が切り替えられるか、迷いもありました。でも、「三谷さんの作品なら、やらなくては」と思った。僕は元来、台本を読んだ時の「これは面白くなりそうだ」という直感を大切にしています。三谷さんの台本を読んだ時、この役は他の人にやらせたくないと感じたんです。


この作品をきっかけに、三谷さんが脚本を担当したNHKの大河ドラマ『真田丸』で、主人公・真田幸村の父親、昌幸の役に抜擢される。毛皮を羽織ったいで立ちと周囲を巻き込む豪快なキャラクターは、回を追うごとに大きな話題に。自他ともに認める草刈さんの代表作となった。

昌幸役は、僕の俳優人生で〝1番〟といえる作品です。1985年に僕は幸村の役でNHKの水曜時代劇『真田太平記』に出演したのですが、その時に昌幸を演じた丹波哲郎さんが素晴らしかった。三谷さんから「丹波さんを超えましょう」と声をかけられ、プレッシャーもありました。しかし、撮影前の衣装テストで、マタギのような毛皮姿になった時、「これはイケる!」と直感的に確信を持ったんです。昌幸は、言動がころころと変わる二枚舌の武将なのに、どこか憎めない。それはなぜか。演じているうちに、昌幸は相手を騙してやろうと謀っているのではなく、どの瞬間も真剣勝負で向き合っていたんじゃないかと思い至りました。主演の堺雅人くんから「昌幸が人を欺く時には、どんなことを考えて演じているのか?」と聞かれたことがあるんですが、「全部直球」と答えました。ずるい顔をしたり、意味ありげな表情をつくるなど、小細工をせずに直球で相手にぶつかっていたんです。結果的に、皆さんに愛すべきキャラクターとして受けとめてもらったのはうれしかった。実は、僕は自分が出ている作品をこれまで見ることはなかったんです。演技に納得できない点があると、後々まで引きずってしまうから。でも、『真田丸』だけは現場で撮影の後モニターでチェックし、放送より先に届くDVDを見て、オンエアーも欠かさず見ました。役者を40年やってきて、集大成ともいうべき作品に恵まれたのですから本当に幸せ者ですよね。

大河ドラマ出演後は、ドラマや映画はもちろん、バラエティ番組からも熱烈なオファーを受けるなどひっぱりだこ。次々に新たな魅力を振りまく充実した表情からは、二枚目のレッテルを貼られて苦しんだ面影はもうない。 

8年前から出演している美術番組『美の壺』の存在も僕にとって大きかった。ナビゲーターを務める僕は芝居仕立てで登場するのですが、コメディタッチな回、真面目な回など、毎回ディレクターとともに、テーマに合わせて演じ方を少しずつ変えてやってきました。僕の新たな面を見せられるよい場を得られたと思っています。年齢を重ねると、芝居でもなんでも「自分はこうだ」と固めてしまいがちですよね。でも僕はそれが嫌で、いまだに新しいことをやりたい気持ちが強い。それは二枚目のレッテルを貼られるのが嫌だった頃から変わらない。だからこそ、今の僕があると思っていますし、これからも人や台本との出合いを大切にして、常に変化を求める俳優であり続けたいと思っています。

元気で俳優を続けるためには、健康で、若々しい体を保たなきゃいけない。幸いにもスポーツが好きで、ジョギングとテニスは体力作りになって一石二鳥。テニスは、ゲームよりもボールを延々と打ち合うラリーが好きなんです。これが、いいストレス解消になるんですよ。それと、僕はちょっと心配症なところがあり、少し体調を崩すと「もうダメだ、重病かもしれない」とおろおろしてしまう(笑)。だから、少しでも気になるところがあれば検査をするし、毎年の人間ドックも欠かさない。健康に歳を重ねるためには、心配症もいいことだと思っています。

Profile

くさかり まさお
1952年福岡県生まれ。1970年資生堂の男性化粧品ブランド「MG5」のモデルとして注目を集め、1975年に『卑弥呼』でスクリーンデビュー。以降、映画、舞台、テレビドラマなどで活躍。現在、NHKBSプレミアム『美の壺』に出演中。2017年5月に写真集『草刈正雄FIRST PHOTO BOOK』(双葉社)を発刊。

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